身体について何を考えたか

『知覚の現象学』の出発点は、当時の二つの心理学——経験論的な感覚要素の心理学と、知性主義的な判断の心理学——のいずれもが、知覚を取り逃がしているという診断である。前者は知覚を刺激の集積に還元し、後者は知覚を隠れた推論にしてしまう。どちらも、私が実際に世界を経験している仕方から出発していない。

メルロ=ポンティが取り出すのは、固有の身体(le corps propre)である。私の身体は、私が持っている物ではない。私が世界へ向かう仕方そのものである。

ここで中心になるのが身体図式(schéma corporel)である。私は自分の手の位置を計算していない。すでに知っている。ドアノブに手を伸ばすとき、私は関節角度を決定していない。ドアノブへ向かっているだけである。これが運動志向性(intentionnalité motrice)——身体が、表象を介さずに世界へ差し向けられている在り方である。

彼が繰り返し参照するのが、シュナイダーという脳損傷患者の症例である。シュナイダーは、命令されて腕を上げることができない。しかし、蚊を叩くことはできる。抽象的運動が損なわれても、具体的な状況に応じた運動は残る。ここに、意識的な表象とは別の水準で働く身体の志向性が現れている。

また、道具の身体化も論じられる。杖に慣れた盲人にとって、杖はもはや対象ではない。触覚の場所が杖の先端へ移動している。オルガン奏者は、初めて触れるオルガンの前で、鍵盤の配置を「身体で測る」。習慣とは、身体図式が新しい可能性を獲得することである。

なぜ重要なのか

デカルト以降の二分法——主体としての心と、対象としての身体——を、身体そのものにおいて架橋する。身体は物体でありながら主体であり、対象でありながら経験の場である。この曖昧さは、解決すべき混乱ではなく、身体の存在様態そのものだとされる。

このサイトが辿る三つの系譜において、メルロ=ポンティは第一の大きな再接続である。

現代との接続

ヴァレラらの『身体化された心』は、明示的にメルロ=ポンティを出発点としている。ドレイファスの古典的AI批判も、身体的な熟練を軸にしている点でこの系譜にある。

実験科学の側でも、身体図式の可塑性、道具使用による身体近傍空間の変化、身体所有感の操作といった研究群が、メルロ=ポンティが記述した現象を実験室に持ち込んでいる。もっとも、現象学の記述と実験のデータをどう突き合わせるかという方法論的な問題(いわゆる neurophenomenology の課題)は、いまも未解決である。