身体について何を考えたか

『監獄の誕生』の分析対象は、刑罰の残酷さの減少ではない。権力の技術の変化である。かつて権力は身体を破壊することで示された(公開処刑)。18世紀以降、権力は身体を破壊せず、利用可能にする方向へ変わる。

そのために発明されたのが規律(discipline)の技術である。空間を区分し、各人に位置を割り当てる。時間を細かく分割し、動作の一つひとつに正しい形を指定する。監視の視線を内面化させる。こうして作られるのが従順な身体(corps docile)——役に立ち、かつ服従する身体である。

もう一つの軸が生政治(bio-politique)である。個々の身体の訓練とは別に、人口という水準で、出生率・死亡率・健康・寿命が統治の対象になる。健康は個人の問題であると同時に、国家の管理対象になる。

なぜ重要なのか

フーコーによって、身体は自然の与件ではなくなった。ある時代のある制度のなかで、身体がどう分節され、何が正常とされ、どんな動作が要求されるか——それらは歴史的に作られている。

このサイトが辿る三つの系譜のうち、関係・権力のなかの身体の系譜において、フーコーは中心的な位置を占める。モースの身体技法、ブルデューのハビトゥスとともに、身体が社会的に構成されるという主張の骨格をなしている。

現代との接続

健康を管理し、数値化し、自己責任として個人に帰す現代の枠組み——ウェルネス産業、健康経営、ウェアラブルによる自己追跡——は、フーコーの語彙で分析されることが多い。

注意すべきは、この分析が「健康増進は悪だ」という主張ではないことである。フーコーが示すのは、善意の介入もまた特定の権力の形式であり、それが何を正常とし何を逸脱とするかを問う必要がある、ということである。身体に関わる事業や臨床を設計する立場からは、避けて通れない視点である。