一言でいうと
私は自分の身体を「見る」のではなく、身体を通して見ている。
歴史
ドイツ語には身体を指す語が二つある。Körper(物体としての身体)とLeib(生きられている身体)である。フッサールはこの区別を現象学の中心に据えた。
彼が繰り返し立ち返るのが二重感覚である。右手で左手に触れるとき、私は触れる手であると同時に触れられる手である。この可逆性は物体には起こらない。ここに、身体が単なる Körper ではないことのしるしがある。
メルロ=ポンティは、これを「固有の身体(le corps propre)」として展開した。身体は、私が持つ物ではない。私が世界へ向かう仕方そのものである。
なぜ重要なのか
この概念は、心身問題の立て方を変える。問題は「心と物体をどう関係づけるか」ではない。身体そのものが、物体でありながら主体でもあるという二重性を持っている。この曖昧さは解決すべき混乱ではなく、身体の存在様態である。
現代研究との接続
認知科学では、Leib / Körper の区別は「身体所有感(body ownership)」「身体的自己」といった概念の哲学的整理に用いられる。ラバーハンド錯覚のような実験は、この区別を実験室で操作可能にした試みと読める。
ただし緊張も残る。神経科学は身体を Körper として——測定可能な対象として——扱う。Leib の次元は原理的に一人称的である。この両者をどう突き合わせるかが、ニューロフェノメノロジーの課題である。
日本語圏での展開
市川浩の「錯綜体」「〈身〉」、湯浅泰雄の心身一如論は、この問題圏を日本語の語彙から捉え直した仕事である。特に「身」という語は、身体と自己を分けずに指す点で、Leib に近い含みを持つ。