一言でいうと

身体は、計算してから動くのではない。すでに向かっている。

哲学での意味

メルロ=ポンティが『知覚の現象学』で繰り返し参照するのが、シュナイダーという脳損傷患者の症例である。シュナイダーは、命令されて腕を上げることができない。しかし、蚊が止まればそれを叩くことができる。

抽象的運動(文脈から切り離された、指示された運動)が損なわれても、具体的運動(状況が要求する運動)は残る。ここに、意識的な表象とは別の水準で働く志向性がある。それが運動志向性である。

ハイデガーの手許存在の分析——ハンマーを使うとき私はハンマーを見ていない——も、同じ構造を別の語彙で述べたものである。ドレイファスはこれを「熟練した対処(skillful coping)」と呼び、記号と規則によって知能を作ろうとする古典的AIへの批判の軸にした。

運動科学との接続

ベルンシュタインの自由度問題は、この現象を制御の側から定式化したものと読める。中枢が全自由度を個別に指定していないのなら、運動はどのように組織されるのか。答えは、課題に応じて機能的にまとめられる協応構造である。

ギブソンのアフォーダンスも同じ場所を別の側から照らす。環境が行為の可能性として現れるなら、その可能性へ向かう身体の構えが運動志向性である。

実務における含意

熟練した動作は、言語的な指示によって作られるのではない。この点は、コーチングやリハビリテーションにおける外的焦点(external focus)の有効性——動作そのものではなく、動作の結果や環境に注意を向けさせるほうが学習が進むという知見——と符合する。ただし、外的焦点の効果に関する実証研究と、運動志向性という哲学的概念は、別の水準の主張である点には注意が必要である。