身体について何を考えたか

『物質と記憶』第一章の議論は挑発的である。もし知覚が世界の内的な写しを作ることだとしたら、なぜ私たちは世界のごく一部しか知覚しないのか。もっと多く写せたほうが良いはずではないか。

ベルクソンの答えはこうだ。知覚は増やす作業ではなく、引き算である。世界は無数の作用の網目としてある。身体はそのなかで、自分が働きかけうる部分だけを切り取る。知覚とは、可能な行為の見取り図なのである。

だから身体は、世界の表象を作る装置ではない。行為の中心(centre d’action)である。受け取った刺激をどう処理して行為に変換するかという、行為の分岐点として身体は働く。

記憶についても同じ論理が働く。純粋記憶は身体の外にあるが、それが現在の行為に有用な限りで身体を通じて現働化される。「習慣記憶」は身体に沈殿した過去である。

なぜ重要なのか

「知覚 → 内部表象 → 行為」という順序を疑い、知覚をはじめから行為の側から捉える。この転回は、20世紀後半にギブソンが生態心理学で行うことと、問題設定において驚くほど近い。

ただしこの近さは、ギブソンがベルクソンを読んだ結果ではない。似た袋小路に、別の道から到達したというべきである。このサイトが両者の関係を概念的並行として記録しているのはそのためである。

現代との接続

行為志向的知覚(action-oriented perception)、アフォーダンス、そして予測処理における「行為のための知覚」という発想——いずれもベルクソンの引き算のモデルと構造を共有している。ベルクソンを読み直すことは、これらの現代的主張が何を前提にしているかを見る良い訓練になる。