身体について何を考えたか

『存在と時間』はほとんど身体を主題にしない。ハイデガー自身、後年これを自らの仕事の不十分な点として認めている。それでもこの本が身体論に決定的な影響を与えたのは、行為の分析を通じてである。

ハンマーを使うとき、私はハンマーを見ていない。釘を見ており、打つべき仕事を見ている。ハンマーは手に馴染み、透明になる。ハイデガーはこの在り方を手許存在(Zuhandenheit / ready-to-hand)と呼ぶ。

ハンマーが対象として現れるのは、それが壊れたとき、重すぎるとき、見つからないときである。そのとき初めて、ハンマーは目の前にある物体(Vorhandenheit / present-at-hand)になる。理論的な観察は、実践的な関わりが破れたところに二次的に現れる。

この順序の転倒が重要である。世界との関わりの基本形は、認識ではなく配慮的な使用である。人間は、まず世界を眺めてから行為するのではない。すでに行為のただ中にいる。

なぜ重要なのか

メルロ=ポンティは、この行為の構造を身体において語り直した。身体は、世界に馴染み、道具を組み込み、意識的な計算を経ずに世界へと向かう。ハイデガーの手許存在の分析は、その哲学的な下地になっている。

ヒューバート・ドレイファスは、この議論を武器に、記号表現と規則によって知能を実現しようとする古典的AIを批判した。この批判は、身体化認知が認知科学の内部で力を持つ一因となった。

現代との接続

道具が透明になるという現象は、拡張された心の議論でも繰り返し参照される。ただし注意が必要である。ハイデガーの関心は、道具が認知プロセスの一部になるかどうかではなく、世界との関わりの存在論的な在り方にある。両者は主題が異なる。このサイトが関係を概念的並行としているのはそのためである。

なおハイデガーの政治的関与——ナチ党への入党と学長就任——は、彼の思想の受容に消えない影を落としている。読む際にはこの事実を切り離さずに扱う必要がある。