身体について何を考えたか

デカルトは、疑いうるものをすべて取り除いていったとき、なお残るのは「私が考えている」という事実だと論じた。身体は疑いうる。自分に身体があると思っているのは夢かもしれない。しかし疑っている当のはたらきは疑えない。

ここから、思考する私(res cogitans)と、空間に広がる物体(res extensa)という二つの実体の区別が導かれる。身体は後者に属する。したがって身体は、他のあらゆる物体と同じく、大きさ・形・運動によって説明される。心臓は熱機関であり、神経は管であり、筋の運動は液体の流入による。『人間論』は、この構想を機械としての人体の記述として展開している。

しかしデカルト自身、心と身体が実際には緊密に結びついていることを知っていた。『省察』第六には、私は船の中の水夫のように身体に宿っているのではなく、身体と「きわめて緊密に結合し、いわば混ざり合っている」という有名な一節がある。渇きや痛みは、身体の状態についての知的な認識ではなく、混淆した感覚として与えられる。彼はこの結合の座を松果体に求めたが、この説明が満足のいくものでないことは同時代から批判された。

なぜ重要なのか

デカルトの切断は、その後の知の制度そのものを形づくった。主体としての心は哲学と、のちに現象学へ。対象としての身体は解剖学・生理学・医学へ。両者は別々の方法と語彙を持つ別々の学問として制度化される。

このサイトが辿る三つの系譜が決定的に分岐するのがここである。20世紀のメルロ=ポンティ、20世紀末の身体化認知は、この分岐を縫い合わせようとする試みとして読むことができる。

現代との接続

「デカルトの誤り」を批判することは、現代の身体論のほとんど定型句になっている。しかしその批判の多くは、デカルト自身のテキストよりも、後世に単純化された「デカルト主義」に向けられている。デカルトを読み直すことは、いま自分が何を批判しているのかを正確にすることでもある。