思考実験
オットーは記憶障害があり、必要なことをすべてノートに書き留めている。インガは記憶に頼っている。二人とも美術館へ行こうとする。インガは記憶を参照し、オットーはノートを参照する。
もしインガの信念が「心の中にある」と言えるなら、オットーのノートの記述も彼の信念として数えるべきではないか。これが同等性原理(parity principle)である。認知プロセスにおいて外部資源が内部資源と同じ機能的役割を果たすなら、両者を区別する原理的な理由はない。
身体論としての意味
この議論は、身体化認知を一歩先へ進める。身体化は「認知は脳だけでなく身体に依存する」と言う。拡張された心は「では身体はどこで終わるのか」と問い返す。
ハイデガーの道具の透明性、メルロ=ポンティの杖の分析、ヘッドの身体図式の可塑性——いずれも境界が固定されていないことを指摘してきた。クラークとチャーマーズは、それを認知の構成についての明示的なテーゼにした。
批判
アダムズとアイザワは、結合–構成の誤り(coupling-constitution fallacy)を指摘した。外部資源が認知プロセスに因果的に寄与することと、それが認知プロセスの構成要素であることは別である。ノートは記憶に因果的に寄与するが、記憶そのものではない、という批判である。
またルパートは、内部記憶と外部記録では、想起の速度・書き換えのされ方・忘却の仕方が大きく異なるため、機能的に同等とはいえないと論じた。
この論争は決着していない。
現代的な意味
AIや検索、外部記録への依存が日常化した現在、この問いはより具体的になっている。認知の一部を外部化することの得失は、認知科学だけでなく教育や労働の設計に関わる。ただし、哲学的テーゼとしての拡張された心と、経験的な問い(外部化は何を変えるか)は別のものとして扱う必要がある。