身体について何を考えたか
1896年の論文でデューイが標的にしたのは、当時の心理学の標準モデルだった。感覚刺激があり、それが中枢で処理され、運動反応が出力される——反射弧である。
デューイは、この記述が現象を後から切り刻んだものにすぎないと論じた。ロウソクの炎に手を伸ばす子どもの例を考えよう。「見る」という刺激と「手を伸ばす」という反応は、実際には分かれていない。見ることはすでに手を伸ばすことに向けられた見方であり、手を伸ばすことは見ることを導き直す。熱さを感じて手を引っ込めたあと、次に見る炎はもはや同じ炎ではない。
つまり単位となるのは、刺激でも反応でもなく、協調的な行為の循環である。有機体と環境は、二つの独立した項ではなく、一つの相互作用の二つの側面として記述されなければならない。
なぜ重要なのか
この批判は、20世紀を通じて何度も再発見されることになる。ギブソンの生態心理学が「知覚と行為は循環をなす」と言うとき、エナクティヴィズムが「認知は有機体と環境の相互作用として成立する」と言うとき、そこにあるのはデューイの論法と同じ構造である。
デューイの習慣(habit)論もまた身体論である。習慣は身体に沈殿した過去であると同時に、次の行為の可能性を先取りする構えである。それは意志の外にありながら、単なる機械的反復でもない。
現代との接続
デューイとギブソンの近さは、しばしば「≈」で表記される。それは直接の影響というより、問題設定上の近接である。このサイトでは、両者の関係を概念的並行として記録している。