身体について何を考えたか
プラトンにとって身体は、認識を妨げるものである。感覚は移ろい、欲望は思考を乱す。真に知られるべきもの——イデア——は感覚では捉えられない。したがって哲学とは、魂が身体から可能なかぎり離れる訓練であり、『パイドン』はそれを「死の練習」とまで呼ぶ。
『クラテュロス』には、身体(σῶμα ソーマ)は魂の墓(σῆμα セーマ)である、という語呂合わせが記録されている。この連想は後世に繰り返し引用され、身体を魂の牢獄とみなす図式の代名詞になった。
ただしプラトンの身体観は一枚岩ではない。『饗宴』では美しい身体への愛が、より高次の美への上昇の出発点として肯定的に描かれるし、『ティマイオス』は身体を宇宙の秩序に対応する構造として詳細に論じる。
なぜ重要なのか
身体を「魂にとっての障害」として位置づけたことで、プラトンは西洋思想に強力な図式を与えた。心と身体を価値的に序列化し、認識の主体を身体の外側に置く。この図式はキリスト教神学を経て、17世紀のデカルトにおいて実体二元論という別の形で結晶する。
このサイトが辿る「三つの系譜」のうち、対象化される身体の系譜は、ここに遠い起点を持つ。
現代との接続
現代の身体化認知(embodied cognition)や現象学は、まさにこのプラトン的な図式の反転として自己を規定してきた。「認識は身体からの離脱ではなく、身体による関与である」という主張は、プラトンを暗黙の対抗者としている。したがってプラトンを読むことは、現代の身体論が何に抗って組み立てられたのかを知ることでもある。