身体について何を考えたか
『ツァラトゥストラ』の「身体の軽蔑者たちについて」で、ニーチェはこう書く。あなたが「我」と呼ぶ意識は小さな理性にすぎず、その背後には大いなる理性としての身体が働いている。思考も、価値判断も、身体の状態と欲動の布置から生じる。
したがって彼にとって哲学の批判は、しばしば生理学的な問いの形をとる。ある価値を信じている者は、どのような身体的条件にあるのか。禁欲主義は、健康な生から出てきた理想なのか、それとも衰弱した生の自己保存の形式なのか。『道徳の系譜』の企ては、道徳を身体と生の条件から診断することにある。
『道徳の系譜』第二論文の、記憶が身体への苦痛の刻印によって作られるという議論は、身体を歴史が書き込まれる表面として捉える点で、後のフーコーに直結する。
なぜ重要なのか
ニーチェは、身体を認識の障害物としてでも、機械としてでもなく、価値評価の基盤として位置づけた。何を良いと感じ、何を耐えがたいと感じるかは、身体の状態から切り離せない。
この転回によって、身体は哲学の周縁から中心へ移動する。20世紀の身体論の多くは、この移動の後に書かれている。
現代との接続
ドゥルーズを経由して、ニーチェの力・欲動・アフェクトの語彙は現代のアフェクト理論に流れ込んだ。フーコーは系譜学の方法を受け継ぎ、身体が権力によって形づくられる過程を歴史的に記述した。
なおニーチェ自身は生涯にわたって激しい頭痛と視力障害に苦しんでおり、彼の身体への注視をこの病歴と切り離して読むことは難しい。